原点はお化け屋敷のプロデュース
―― 澤井くんは、小さい頃から放送作家を志していたんでしょうか。
澤井直人 ぼくは小学生の頃から決まった枠内で遊ぶことが苦手でした。たとえば野球やサッカーをはじめとしてルールに縛られた遊びを周りの友達がしていても、 かたくなに参加しようとはしなかった。自分でゼロからルールを作って、みんなが楽しめる遊びを生み出す方が好きでしたね。
―― それは生粋の企画屋さんだ!周りをいつも喜ばせていたんですね。
澤井直人 今でも強烈に記憶に残っているのは小学校4年生のときのこと。家の自分の部屋がちょっと広かったのでクラスの友だちを呼んでお化け屋敷をしようと企画しました。カーテンや洋服で迷路のようにして導線をつくり、照明も暗くして。だけどゴールのご褒美がない。そこでふと思いついたのがチューが大好きな女の子の存在で(笑)。さゆり(仮名)ちゃんはかわった子で、男の子なら誰とでもチューをする。とにかくチューが好きで、チューしたくてたまらない子だったんです。 しかもなかなか可愛い(笑)。であればゴールにさゆりちゃんに居てもらおうと。 男子は手をタオルで頑丈に縛り、ゴールまでたどり着ければチューができるようにして。男子のほぼ全員が虜ですね、みんな夢中になっていました。ぼくは変なことをする男子がいないか見張り役で。なぜか親にもバレなくて、1年くらいはチューお化け屋敷のプロデューサーをしていました。”絶対に下の学年の子とは話さない”と恐れられていた6年生の先輩たちから「澤井の家ってテーマパークなんだろ?」と廊下で鼻の下をのばしながら言われたときは驚きました。
―― さすがお見事(笑)。これまた変わった経験をお持ちですな。本格的に放送作家を目指したのには何か転機があったんでしょうか。
澤井直人 高校受験に失敗し、浪人をしていたときですね。オープンキャンパスを見に、1日だけ東京に行ったんです。帰りの夜行バスまでの待ち時間。暇を持て余していると若手芸人さんに呼び込みで声をかけられ、急遽お笑いを見に行くことになって。その頃はとくに目的もなく受験勉強を続ける毎日。たぶん目も死んでいました。そんなときに観たチュートリアルさんや、若手時代のピースさんの漫才。衝撃を受けました。ルミネの劇場をドッカン、ドッカン揺らす芸人さんたち。気付いたら笑い泣きしていて。小学生時代の思い出がフラッシュバックしたんです。それが、この世界に入ろうと思った入り口ですね。
―― 本当に偶然のきっかけだったんですね。お笑いの素晴らしさを再発見してから生活は変わりましたか。
澤井直人 それからは勉強を一切することなく、お笑い三昧の日々。ウェブ上や劇場で見たネタは紙に書き起こして音読するくらいのめり込んでました。その結果、受験は当然うまくいかず(笑)。もう浪人を続ける選択肢はなかったので、ひとまず大阪の大学に進学することを決めました。学生時代、大学で出会った友人とお笑いコンビを組んでました。キングオブコントへの出場をはじめ、笑いには常にふれていましたね。結局、うまくはいかず解散したのですが、テレビやお笑いの世界に身を置こうと決心は固めていました。
―― 大学時代に決意したと。そこから澤井くんは大阪から上京したわけですが、どういう経緯だったのでしょう。
澤井直人 まず吉本のNSCに入学しました。実は吉本にはYCCという放送作家やスタッフを目指すコースもあったんですが、その前に「芸人さんたちの中でネタを作って舞台に立つべき!」と勝手なこだわりを持っていて。実際にお客さんの前で何回かネタをし、改めて芸人さんのすごさを実感しました。当時の相方との解散を機に、YCCにコースに転入し卒業。その後は渋谷の劇場の作家見習いとして東京で働けることになったんです。親も「劇場で働かせてもらえるならがんばれ!」と背中を押してくれました。しかし、いざ上京してみると、そこには想像とかけ離れている激務な生活が待っていました。いわゆる「思ってたんとちがーう!」ですね(笑)。週5日間の拘束に加えて、収入も正直しんどくて。経済的な負担もそうですし、「これは自分の道ではない」と劇場を辞めるという決断をしました。
「数珠」は売るものではなく、つなぐもの
―― それも大きな決断だったのでしょう。上京してから澤井くんは毎日新しい人に出会うというルールを課していたとのことですが、そこから今につながる出会いがあったのでしょうか。
澤井直人 劇場を辞めてからは、わずかな繋がりを頼りに、東京にいる知り合いに片っぱしから会って、とにかく人を紹介してもらったり、SNSを使って直接アタックしたりもしていました。「1日3人新しい人と会い、澤井を面白いと思ってもらう!」というマイ・ルールも作っていました。数珠つなぎのように何回も繰り返していると、ありがたいことに直接、放送作家の方につなげていただいたり、会うべき放送作家の方の連絡先を教えてもらえたりしたんです。そこで竹村武司さんやヒロハラノブヒコさんという、テレビの第一線で活躍されている大先輩の放送作家たちに出会えました。 アプローチをしていろいろとお話をさせてもらった後、お手伝いとして会議に呼んでいただいて。それが最初のテレビのお仕事ですね。
―― 『BRUTUS 』に「美女数珠つなぎ」というコーナーがありますが、まさに人の数珠つなぎの成果なんですね。いまはテレビのお仕事ができる喜びもひとしおかと思いますが、放送作家だからこそ味わえる仕事のやりがいって何でしょうね。
澤井直人 活躍されている放送作家の先輩方の中にはいろんなタイプの作家さんがいらっしゃいますが、まず第一に人それぞれ違う面白さがあります。会議室で話を聞いていると、自分が作家であることを完全に忘れてしまいますね。よく、観客になっています。「お前ゲラだな!」って言われますが、本当に面白いから仕方ない(笑)。会議に行くのがワクワクする、そんな仕事って最高ですよね。あとは、自分が面白いと思っているテレビの企画が通り、 たくさんの人に共感してもらう経験ができるのも、この仕事の大きな魅力だと思います。
―― フリーとして事務所に入らず繋がりをきっかけとして仕事をものにしていっている澤井くんですが、今後この先での計画や考えていることはありますか。
澤井直人 いま考えているのはぼくのようなフリーの作家さんや何か表現をする方たちがのびのびと活動できる枠組みをつくり上げられたらなあと思っています。たしかに事務所の方から所属のお誘いをいただくこともあったのですが、ここまでフリーとして何とかギリギリやってこれましたし、これからも自分で道を切り開いていくつもりです。放送作家のなかにはハガキ職人のようなイメージ通り裏方に徹する作家さんもいますが、ぼくは前に出たがりなんです(笑)。最近は目立つことばかり考えすぎて、会議で顔芸しかしていないときが本当にあるので反省しています。誰が顔芸作家やねん!って。
この世界で、一生食べていく
―― おちゃらけのなかにも芯がしっかり通っているギャップが、相手の心をくすぐるのではないでしょうか。それでは最後にうかがいます。「26歳のときに考えたことがその人の今後の人生の方向を決める上で重要な土台となる」これは上岡龍太郎さんがかつて提唱した「26歳原点説」という考え方です。澤井くんはちょうど今年が26歳の年ですが、何か思うところはありますか。
澤井直人 放送作家として一生飯を食べていく。今年決めたことですが、確かに今後の指針になっていきそうです。ちょっぴりお恥ずかしいですが、去年、いまの彼女と一緒になって生活が落ちついてきたんです。牙が抜けたら作家はおもんなくなると不安な面もあったのですが彼女のサポートもあって仕事への取り組みの姿勢は良くなっています。作家仲間からときにはブーイングも食らいますが。いまは仕事がただ楽しくて。保障こそないですがこの世界だからこそビッグなチャンスが目の前にゴロゴロ〜と転がってくることもある。じっくり腰を据えてそいつにカブリついてやりたいです。最近はごはんにカブリつきすぎてリアルに太り気味でして。太りすぎて彼女からフラれないように体調管理も気をつけていかないと(笑)。
―― 仕事もプライベートもお腹も充実の澤井直人さん、これからも高みを目指していってください!ありがとうございました!
2016年7月 六本木にて