異国の地で、やっと伝えられた。
―― 古東さんとは、放送作家の共通の知人を通じてお会いしたのが最初ですね。お話させていただいて、裏表がなく個性が際立っていて素直に「おもしろい方だなあ」って思っていました。子どもの頃のお話から伺わせてください。
古東 小学生の頃、奈良県の田舎に住んでいたのですが、遊び相手がいなかったんです。村に住んでいて、隣の村まで自転車で30分くらいかかりました。
山を二つくらい越えないといけず、壁に向かってひたすらボールを蹴って過ごす毎日。外が暗くなると母親が迎えにきて「ごはんやで」って。そういう生活を送っていると、心の中で自分と会話するしかないじゃないですか。
―― 自分と向き合う時間が長かったんですね。
古東 そうですね。たとえば壁を『キャプテン翼』のキーパーの若林に見立ててシュートをして遊んだり、あとは漫画を書いたり、人形遊びをするとか。
お話をつくっては、やめてということを頭の中でずっとしていた小学校生活だった気がしますね。いま考えてみると、ちょっとあぶない子だったんじゃないかな(笑)。
―― いえいえ古東さんのクリエイティビティの原点を見つけた気がします。そのあと海外に引っ越しをされるんですよね。生活もガラッと変わったと思いますがいかがでしょう。
古東 中学2年生からマレーシアに引っ越して5年ほど住んでいました。向こうの言語は、英語、マレー語、中国語、インド語が混じった国なんですけど、まさに異文化で。
「自分には理解できないんだ」と割り切るしかないような状況がありました。たとえば現地の友人は、待ち合わせに40分くらい平気で遅刻してくるんですよね。
こっちは怒るじゃないですか。するとあっちは南国の雰囲気よろしく「never mind(気にすんなよ)」って。
―― こっちの台詞だよってわけですよね。カルチャーショックを受けて。
古東 相手は悪びることもないので「あっこれ、わかり合えないな」って。今までの感覚は通用しないんだなと。どこかであきらめたんですよね。そこからは気持ちが楽になりました。
人種も宗教も、食べるものも違う。でもマレーシアでは人と関わる機会を得ました。自分が考えてきた「こんな考えって、みんなはどう思うのかな?」というアイデアを、ようやく伝えられる対象ができました。
―― 異国の地のマレーシアで、思いきって試してみようと。
古東 マレーシアの学校は、大学のような形式で、どの授業を選択するかは自由なんです。バンド、アート、写真、映像制作とか、いろいろあるんです。いざやってみると意外と手応えもあって。
楽に単位を稼ごうと思ってFilm Study(映画研究)という授業を履修したのですが、その課題で制作した「食堂のおばさん」のドキュメンタリーが学校で褒められて。とにかく表現することが好きということを、その時に自覚しました。
―― 表現する楽しみを実感して、そこから日本に戻られて。
古東 大学から日本に帰国しましたが、そこで少しすねてしまったんです。自覚はないけれど協調性がなくなっていたんですかね。外国人のように「NO」とか本当に言っていましたし。
大学1年の時はどこに所属しても浮いている感覚がありました。翌年に哲学ゼミに入って、ようやく居場所を見つけて。
―― 哲学ですか!ユニークな方たちが集まる印象があります。
古東 「犬になりたい」って真顔でいう人とかいましたね(笑)。常識や固定観念をいったん置いておいて「あなたはどう考えるの?なにを求めているの?」ということを言語化させるゼミでした。
そのなかで、ぼくがゼミ長になりました。「みんなと比べてコミュニケーションが取れる方だから、あなたはまともでしょ」って。実際、個性的な人たちしかいなかったので、まとめ上げたときのおもしろさはありましたね。
ただ当時は、どの仕事に就きたいという希望はありませんでしたし「働かずにお金をもらえる世の中が幸せじゃないか?」みたいなことを言っていて。そんな姿勢だったので大学の4年では就職が決まりませんでした。
いちばんおもしろいヤツは、誰なのか。
―― そうなんですね。ではテレビの世界を本格的に目指したのはその後なのでしょうか。
古東 いったん冷静に自分の足りないところを考えました。「なにかを表現して人を楽しませたい」という思いは持っているわりに、人を楽しませた経験がほぼ皆無だということに気付いたんです。
スポーツや音楽をやってきましたが、あくまで自分が楽しむためにやってきたことであり、人を楽しませようと思ってやったことではなくて。そこで選択肢は一つだなと思い立ち、芸人になりました。
―― えっ、お笑い芸人に?周りもびっくりされたのではないでしょうか。
古東 周りには「あの人、大丈夫かな?」などと噂を立てられながら活動していました。なかなか上手いこと笑いがとれなくて。「人を楽しませることはむずかしいなあ」と。
一応、事務所に所属をして師匠の座付きのような動きをしていたので、上下関係も勉強せざるをえない状況で。最初はきついなあと思ったのですが、リハビリのような気持ちでやっていました。ふりかえれば、自分にとって必要な1年でしたね。
―― 興味深いです。その当時はコンビで活動されていたのですか。
古東 いえ、ぼくはピン芸人としてですね。秋に『M-1グランプリ』の1回戦があって、即席でコンビを組んで出場してみましたが、すぐに落ちてしまいました。落ち込みはしましたが、その年の決勝って気になるじゃないですか。
2008年は、NON STYLEとオードリーの頂上決戦のネタが本当におもしろくて。そのとき一瞬、ぼくの芸人魂に火がついたんです。「この人たちよりも、おもしろくなりたい!」と。
―― (笑)。
古東 こたつでM-1を観ながら「おれは本気で芸人になる」って。だけど最後で気持がひっくり返るんです。司会の今田耕司さんの最後の一言で引いた画になったとき「いちばん笑わせたのは、M-1を創った人だな」って思って。日本一の漫才師たちが集まる場所をつくった人が〝いちばんおもしろい〟ということに気付いたんです。
それは、ぼくにもできることかなと思いました。芸人になるって宣言した1分後には、テレビ局を受ける気持ちで燃えていました。この子は情緒が不安定なのかなって親は呆れていましたが。
―― 切り替えの早さ、あっぱれです。そこからテレビ東京とご縁があって。
古東 そうですね、テレビ東京に拾ってもらって。実は、入社前にインターンシップに参加をしていました。そのとき先輩社員の方に「100個くらい企画を書いてくれば」と言われ、ぼくはそれを本気にして80個持っていって。結果1つだけ残りました。
こんな自分のような学生の意見でも「おもしろい」と思ってくれた人がいたんですよね。ほんの小さなコーナーなんですけど、その企画が実際に番組として、カタチとなって放送されたのを観てすごいなあと。むしろ「テレビ東京、大丈夫かな?」って(笑)。
1ミリでも可能性があるのなら。
―― 先輩の器の大きさを感じますね。そこから入社し、制作局に配属されるわけですが、仕事を始めてからの感触はいかがでしたか。
古東 ここしかないと思っていたので、素直に嬉しかったですね。最初はAD業務もいろいろあるんですけど、ぼくは先輩たちのスケジュール管理が日常の80%くらいを占めていました。
先輩方はみんな忙しくて、スケジュールが合わないんです。打ち合わせをするにしても、まずメンバーが集まらないといけないので這いずり回るように「ここなら空いてますか?」と聞いて回って。そういう風にして食らいついていました。
思い描いていたのは会議で腕組んで、指をパチンと鳴らしながら「これで、いこう!」みたいな。そういう方も実際に存在はするんですけど、みんなが番組づくり以外のことを考えないで済むように調整していましたね。
―― 入社してからお忙しい日々を過ごされていたと思いますが、ご自身の企画も出されていたわけですよね。
古東 企画書は1年目のときから書き続けていました。企画を出さない方もいます。だけど、ぼくはどうしても自分の企画をやりたくて入社しましたから、書かないということは考えられなかったんです。
目の前の業務がどんなに忙しくても、時間をつくろうとしていました。2年間は企画が通らなかったですが、腐らずに継続して先輩たちからたくさん支えてもらって。やっと3年目で「いいじゃん!」と言ってもらえるものがつくれたんです。
はじめはドキュメンタリーでしたが、SNS上でたくさんの反響をいただくなど手応えがありましたし、そこから自分の色を出せた『交換少女』につながっていきます。
―― 『交換少女』はリアルタイムで拝見していましたが、モデルプレスとのタイアップやTwitterをはじめ、SNSでの反響もありました。あの企画はどういった経緯で生まれたのでしょう。
古東『交換少女』は田舎で育った自分の人生を重ねています。はじめは「家出した女の子」というテーマを立てました。田舎から上京してきた子が、東京の洗練された美人OLについていくような企画です。
当時、営業の若手が交換留学をテーマにした別の企画書を出していたのですが。実は、両方に問題があったんです。ぼくの方は情報性が薄かった。そして交換留学は笑えるかどうかの懸念があった。
そんなときに編成の方に声をかけられて「この2つの企画ってさ、合わせられたりするのかなあ」と。ぼくは番組をつくりたくてしょうがなかったので「できます!」って(笑)。
―― おおお、言い切りましたね!
古東 「これ確実にできます。いったん持ち帰っていいですか」という具合に。できるかどうか見えてはいなかったのですが、でも「このチャンスには絶対に食らいつきたい!」と思ったんです。
そのときに「交換少女」っていう四文字がふわっと浮かびました。書いてみたら字面のおさまりがよかったんですよね。ちょっと変なかんじもするし、いけないこともしている気もするし。
だけどそこには大義名分があって。「で、できました!」って企画書をびっしり書き直して編成に持っていきました。
―― そうして見事に企画を通されて。古東さんはご自身の経験のエッセンスも入れているので企画に説得力があると思います。
古東 そうですね、ある先輩から言われたのですが「自分にしか書けない企画を書いたほうがいいよ」という言葉が心に残っていて。
ぼくは、住む場所が移ったときのショックを経験してきた方だと思っていたので、それを描いてみたかったんですよね。企画を通して、仕上がりまで面倒を見てくれた担当の方には感謝の気持ちしかありません。
―― 番組では一週間、渋谷のギャルと屋久島の女子高生の暮らしの交換がありました。
古東 当初は、生活のギャップに驚いている顔をねらっていました。だけど、ロケを始めたら「ちがうな」って思う瞬間もあって。柔軟な若い子たちは放り投げられた先の新しい環境を、意外と受け入れるんですよね。
実際、渋谷から屋久島へ行ったギャルの子は、杉の木を登りながら「ディズニーランドみたい!」と感想を言いながら、彼女なりに楽しんでいました。
屋久島の子はファッションショーに出ることになるのですが、最初は「自分には無理」と泣いているんですけど、本番になるとランウェーを堂々と歩くんですよね。ぼく自身、カメラを回しながら感銘を受けました。
放送後、想像以上に反響があり、「交換少女」っていう言葉がネットの急上昇ワードになったのは驚きで。1回きりの番組でしたが、またどこかでできたら嬉しいですね。
古東監督、後輩のイジりから誕生。
―― 初めて監督を務められた作品、今年の1月28日(土)一般公開する『愛MY』もご自身の経験から生まれたと聞いています。
古東 きっかけは一瞬の出来事から始まります。ぼくはものに話しかけてしまうクセがあり、たまたま会社でそれが出てしまったんです。使い古した靴下に「ありがとう」と言ってゴミ箱にポイって捨てたら、後輩が大笑いしていて。
うっかりですけど、ものを大事にする気持ちから出た言葉なので、ぼくはそのとき真剣です。だけど他人からするとちょっと面白いように見えることがある。そのとき気付いたんです。これって素敵なことだし、笑えるなって。
テレビ的だと思いました。こういうキャラクターを主人公にすると、いいコンテンツになるんじゃないかなって。それで企画を書きました。
―― 女子高生に重ねたんですよね、どういうお話なのでしょうか。
古東 ものと話せるようになった女子高校生のお話です。いまの若い子たちは「さとり世代」とも言われますよね。
たとえばやる前からあきらめて本音を言わない、みたいな。「言っても無駄でしょ」という主人公がものと話せるようになることで、本音を話すことを覚えていくんです。
だけど1回、話しすぎてしまう場面が出てきます。これはぼくがマレーシアで過ごした経験が入っていますけど(笑)。どこからどこまでは言ってよくて、どこからどこまでは言わない方がいいのか。その線引きのはっきりしないかんじを表現してみました。
―― つまり「曖昧」であると。題名は『愛MY』という表記ですがキャッチーですね。
古東 愛する私のものって書くんですけど、違和感がある字面にしたのでオリジナリティは出せたかなって思っています。『愛MY』とした後、ぼくがタイトルを変えようとすると、周りの方々が変えない方がいいよ!と言ってくれたんです。結果としてはそのまま進めさせてもらいました。
―― 『愛MY』はまず、沖縄国際映画祭の出品作品になるわけですが、テレビ東京の代表として選ばれる必要がありますよね。そこはいかがでしたか。
古東 当時、何十個も提出された企画から最後の2つまで残ったことは聞いていて。1つはベテランの企画、もう1つがぼくの企画。そうしたら担当者から電話があって「脚本家の欄が空白になっていたので、こっちで入れておいていいか」って。
もし、脚本家さんの名前で、1ミリでも結果が変わる可能性があるのなら、自分で決めた方がいいなと思いました。話を聞くと期限が明日までだったのですが「今日中にどなたか必ず決めてきます!」と伝えて。できることはやろうと。
―― ここは古東さんだからこその思い切りのよさですね!
古東 『愛MY』の作品性を考えて『世にも奇妙な物語』やテレビ東京の『釣りバカ日誌』の脚本を手がけた山岡潤平さんという方にぜひ担当していただきたいと思い、部長にも協力してもらいました。
人脈をたどって直接電話をして、赤坂のカフェまで猛ダッシュ。企画書をどうにかお見せして(笑)。「こんな企画なんですけど脚本家としてお願いできませんか!お忙しいと思うんですけど!」って。
今日の今日だったので驚かれていましたが、企画をおもしろがってくださいました。そうして受けてくださることになったんです。翌朝、「山岡さんに決まりました!」と会社に伝えて。
それが企画の最終決定にどれだけ影響を与えたかわかりません。もしかしたら、ほんの少しは姿勢を評価してもらえたのかなあと。なんで選んでもらえたか、こればっかりはわからないですね。
―― お話を伺っていると、熱く想いを持っている方を応援してくれる風土があるように感じます。若手の方でもチャンスがありますよね。いかがでしょうか。
古東 そうですね。先輩から放送作家さんを紹介してもらったり、企画書の相談にのってもらったり感謝しています。
3年目でまだ一度もカメラを持ったことのない若手にドキュメンタリーを挑戦させてくれる会社ですし、『交換少女』でいえば4年目と1年目の企画をくっつけて、より良いカタチにしようとしてくれた編成の方がいますし。
一緒に考えてくれるんですよね。「若手だから」とか関係なく、ちゃんと向き合ってくれるのが嬉しいです。ただ若手は、もちろんぼくも含めてですけど、もっとがんばれると思うんですよね。
もっと企画書を書いたらいいのにって。いつも後輩に「もっと書けば」と言っています。ライバルを増やしちゃうだけなんですけど、後輩たちともお互い切磋琢磨し合う関係でありたいので。
―― 古東さんのように後輩を気にかけて応援するスタンスこそ、テレビ東京らしさを体現しているのではないでしょうか。監督作品『愛MY』は映画祭の出品を経て、全国ロードショー公開、さらに舞台化もするとも聞いています。
古東 二次展開というか、ここまで広がったことに感謝しかないです。映画については、ポップなものを意識してつくりました。
自分の創作意欲はいったん置いておいて、より多くの方々に受け入れてもらえるように、自分が表現したい「気持ちのわるい部分」はオブラートに包むように工夫しました。
芸人さんのキャスティングにも出ていますが「みんなが好きな人でやる!」というのは決めていましたね。たくさんワガママを言ってしまいましたが、キャスティング担当のプロデューサー陣のご尽力あって、今を煌めく芸人の面々に集まっていただくことができました。本当に感謝しています。
あれ、ぼく「感謝」しか言ってないですね。でも本当にすべて、ぼくのチカラではないんです(笑)。
―― どこまで広がっていくか楽しみです。舞台化でいえば原作者の立場になるわけですよね。
古東 舞台化に関しては最初は世界観が変わるという点で、複雑な気持ちになるかなって思っていました。でも実際、プロットがあがってみると良い意味で変わってるんです。
「こうなるんだ」というおもしろさの方が圧倒的に大きくって。素直にいいなって思いました。今後10年を考えたとき、ひとつひとつの仕事にのめりこんで自分で取り組むことがむずかしくなるかもしれません。その意味で、最初のきっかけをつくるという経験は、自分にとって貴重な学びになりました。
―― 今回、映画監督に初めて挑戦されたわけですがいかがでしたか。
古東 よくある映画監督のイメージですけど、パイプイスにずっと座ってメガホンで「カーット!」って。経験をしてみて、これって正しい姿だなって思ったんです。つまり、監督が動くと全体が止まってしまうんです。
ひとりは全体を見ていないといけない。ぼくが動こうとすると「そこにいてください」って言われるんです。ぼくもスタッフの皆さんから信用を得ないといけないわけで。
たとえば衣装さんが「ハイソックスの色は白ですか、紺でしたっけ」とディティールの質問をするわけです。もしそのときまで考えていなくても迷わず「紺で!」と言い切ることって大事なんですね。ただのハッタリではダメですけど。
正直、身の丈に合っていない仕事内容でしたが、映画を通じてそういう大事さもたくさん学ばせてもらいました。この経験をバラエティの番組づくりにいかしていきたいですね。
カッコつけない生き方をしていきたい。
―― 映画監督の経験をいかしていきたいということですが今後、テレビ東京で今後も活躍されるにあたって目標はありますか。
古東 今年、人生最大の失恋をしたんです。3ヶ月くらい立ち直れなくて。ぼくはこの経験を一生忘れないと思います。でもふりかえってみると、覚えていることって限られるなあと。
これまで生きてきて、覚えていることって意外と少ない。何を覚えているかというと、感情の起伏が激しかったところなんです。つまり、あの大失恋には意味があったと思うんです。
―― 意味があったと。
古東 芸人の経験を通して、人の前で笑うようになりました。人の前で泣くことは恥ずかしいと思っていましたが、泣くようにもなりました。怒るようにもなりました。ぜんぶ、社会人になってからなんです。大人になったのに子どもへ回帰してます。
でも社会人になってからの方が圧倒的に充実しているし、覚えているんです。入社するまではあえて感情的にならないように自分から予防線を張って、逃げていたところもありました。社会人になってようやく、感情的であることの素晴らしさに気付いたんですね。感情的に自由でいていいと思うんです。
その意味では、ぼく自身が中・高校生時代をマレーシアで過ごしたこともありますが、多感な時期の青年が成長するさまに焦点を当てたいですね。コンテンツを通じて、感情のひだが動く実感を伝えられたらなって思います。
―― それでは最後に伺います。「26歳のときに考えたことがその人の今後の人生の方向を決める上で重要な土台となる」。これは上岡龍太郎さんがかつて提唱した「26歳原点説」という考え方です。何か思うところはありますか。
古東 「カッコつける必要がない」っていうのを教えてもらったのが26歳のときでした。初めてドキュメンタリーの企画が通った年でもあります。
はじめは『プロジェクトX』のようなカッコいいものをつくろうと力みすぎていて、演出という肩書きがついたことに浮き足立っていました。要は、ぼくは取材対象者の真の姿を見ずに、表面上の見え方にこだわって撮っていたんです。
そのとき面倒を見てくれた先輩からアドバイスをもらいました。ぼくたちの仕事は取材対象をカッコよくねじ曲げることじゃなくて「この人がここにいた証を記録すること」だと。
必ずしも「カッコいいもの」をつくることが求められているわけではない。そう気付きました。
描きたいものもあるけれど、素材本来の持ち味を存分に引き出すことをしないと、テレビ東京のディレクターとして生きていけない。そういう危機感は持っています。ここで得た経験はいまでも指針として大事にしていますね。
周りに話し相手がいなかった幼少期。海外で過ごした多感な時期、住む場所が変わるショックも受けてきた。これまでのどんな経験も企画に昇華させる。古東さんは自分をさらけ出し、カッコをつけません。だからこそ企画にオリジナリティや説得力が出ているなあと。さらに行動力には目を見張るものがありました。映画の公開も楽しみです。古東さん、お忙しい中ありがとうございました!
2016年12月 テレビ東京本社にて
映画『愛MY ~タカラモノと話せるようになった女の子の話~』
公式サイトはこちら